正蓮寺到着

11月14日(土)市原市正蓮寺にて「コロナ退散!100キロ行脚!」を行う大塩裕孝副住職を、檀信徒約60名がそのゴールを見届けた。

出発清澄

その行程は、11月10日から14日までの5日間であった。

清澄寺を出発点とし、誕生寺、鏡忍寺、加名盛日蓮聖人経塚、藻原寺等、日蓮聖人ゆかりの地を約100キロの行脚で巡り、その道々でコロナ退散、生活復興を祈願した。

無事に正蓮寺に到着した大塩裕孝副住職は「今こそ御題目を一心にお唱えする時、御題目の力でコロナは退散し、皆さまに必ず幸せが訪れる」と檀信徒に熱く語った。

加名盛

上写真は、途中の加名盛日蓮聖人経塚にて大塩裕孝副住職と山田上人、本吉家のおふたりでの写真。

※新型コロナウイルスに感染した方の手記を、ご本人ご承諾のもと再編集しました。

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兆候

 昼間に草刈をして汗ばんだシャツを着替えないまま過してしまい夜になって寒気を覚えた。
 翌朝、喉がいがらっぽくて少し痛みを感じ、咳き込む感じもあった。
(ここを発症1日目とする)
 普段このような風邪の前兆の時は、うがい薬でうがいをして、数日で回復する。だが、数日前に年に数回しか会わない仕事関係者と会っていたため、心の奥では新型コロナではないかという不安が少しよぎり、夜、布団の中でコロナに感染していたらどうしようと不安に陥り、殆ど眠れない一夜だった。

・二日目
 翌日は朝から食欲がない。夕食時に妻から食欲がないのを指摘され、初めて身体の状況を話した。
 そこで初めて体温を測ることになり、検温をしたら35.94度であった。(後で分かるがこの体温計の表示は病院のものと比較して1度程低く表示されていた)

・三〜五日目
 熱は無いが、風邪と思い市販の薬を飲みながら仕事をおこなう。

・六日目
 風邪薬を飲むとウイルスの反応が出にくくなるとの情報を知り服用をやめる。

・七日目
 市販薬の服用を止めても平熱程度だったので、やはりただの風邪気味ではと安堵し始めたが、その日の夕方37.7度となり不安的中かとの思いがよぎる。

・八日目
 初期症状が出てから八日目、何度か検温するが37~38度台であった。当時の厚生労働省の指針では、通常は四日、高齢者や基礎疾患がある人は二日発熱続いたら相談するようにとのことだった。自分は高齢者の枠なので二日続いたら病院へ行こうと決心する。夜中に何度も検温したが、37~38度を行ったり来たりしていた。

PCR検査を受ける

・九日目
 朝の検温では平熱程度だったが病院へ行こうと決心。病院へ救急扱いで申込み、自車自走で出かけた。
 病院で問診を受け、奥のパーテーション内で待機するが、何となく隔離すべきという雰囲気があった。
 私が受診した時期、政府の指示ではまずレントゲンを撮り肺炎状態であればPCR検査という順序立てだったが、私の場合はすぐにPCR検査の準備を始めてくれた。すぐにPCR検査をしてもらえるとは思っていなかったので、病院の対応に感謝しきりであった。
 途中からの対応はもうコロナ感染者とみられる扱いであったが、ある意味この対応はホッとする出来事であった。

 結果は今夜か明日の午前中に連絡しますと言われ帰宅する。
「何とか陰性でありますように。」
そんな気持ちで夜中まで連絡を待ったが、とうとう連絡は無かった。

判定結果は…

・十日目
 陰性の結果が出るように願いながら朝を迎えた。
 九時過ぎに病院から電話があり、「残念ながら陽性です。今後は保健所から連絡がありますので、その指示に従ってください。」電話を切ったが、頭の中が真っ白になった。パニックというかあらゆる事が巡り回り、何も判断が付けられない状況だったと思う。

 まもなく保健所から電話があり、いろいろと説明があり、ファクシミリでも書類が数枚送られてきた。家庭内感染を警戒してか固定電話ではなく私の携帯電話に直接連絡がくるようになった。
 妻は入院の準備で大わらわ。その中を電話対応などで大変だったと思う。
 すぐに入院できると思っていたが、入院先のベッドが決まらず、数日は自宅待機とのことだった。
「入院したらすぐにアビガンを使ってもらって治そう。」そんな決心までしていたのに拍子抜けしてしまった。

 しかし、同時に今まで感染者を出さないよう努力されていた市や保健所の方々に対し、私の感染によって市中にウイルスを放たれてしまったのと同然な状況を作ってしまったという現実に、ただ申し訳ない思いだった。
 この精神的負担は膨大なものであった。
 この夜に保健所から感染者情報を公開しますと連絡があった。

情報拡散は非常に早い

・十一日目
 夜中に下着がビシャビシャになるほどの大汗をかいたら平熱近くに体温が下がり身体的にはいくぶん楽になったが、『感染者は誰だ』ということで、市内は大変なことになっていた。
 保健所からは当初から『この件は誰にも話さないでください』と言われた。せめて親戚だけでもと言ったが、『やめてください』とのこと。心苦しくてしょうがなかった。

 だが、噂の拡散は早かった。
 その日のうちに仕事関係者から今後の対応について確認の電話があった。陽性の結果で頭がパニックになって対応もなにも考えがまとまらないのに、周りへの情報拡散は早く、もう隠しきれないと諦めた。「保健所からは絶対に言わないでくださいと強く言われているので、内密にお願いしたい」とは言ったものの、直ぐに親戚から『貴方が感染したと聞いたのだけど』との確認の電話があった。
 本当に噂の広がりに驚くばかりであった。

 後日判ったことだが、ネットでも驚くほどの速さで情報が拡散し、ほぼ実名に近い個人の特定情報がネットに掲載され、噂が噂を呼び、私が死んだとも情報が流れた。

自宅待機の日々

・十一日目〜十二日目
 (私の場合)平熱で身体は軽い倦怠感と頭痛を感じるものの味覚障害などはなく大して問題は無かった。
 しかし、目を閉じると不思議な画像や映像が現れる気味の悪い見た事もないような生物のような映像が見える。目を開けると目の前の状況はなんともない。目をつむるとすぐに現れるので不安材料が増えて精神的にあらゆる状況を想像する状態に陥ってしまう。この二日間は下痢が続いた。

 妻は嵐のような電話に対応しながらも自室にいる私へ食事を運び、用がある度に感染しないように細心の注意を払いながら献身的に尽くしてくれている。

入院先が決定

・十三日目
 自宅待機療養にも慣れて、このまま回復してくれれば幸いだという思いが生まれた時に、保健所から入院先が決まったと連絡があった。
 入院するにあたり、時間や送迎方法、また運転手を務める妻には往復路での諸注意、帰宅後の行動まで事細かく保健所から指示が出た。
 入院準備のほとんどを妻がおこなってくれた。申し訳ない。申し訳ない。の言葉しか浮かばない。

いよいよ入院

・十四日目(入院初日)
 車に乗ってビックリ。車内の前後がビニールシートを貼付けて隔てられ、後席もビニールシートで覆われている。全て妻がおこなったとのこと。さらに、妻には「送り届けて戻ったらすぐに入浴してよく身体を洗うように」との指示まで出ていた。
 病院では看護師さんが防護服で待機しており、その指示に従い車椅子に乗って院内に入る。ここで妻とは別れた。次に会うのは2週間後か、或いは…とそんな思いがよぎる。

 医師の最初の言葉は「もし急変したらこの病院に重篤治療の設備はないので転院となります。移動中にさらなる急変が起こる可能性があることは承知しておいてください」と言われ恐怖が強まった。
 入院後のレントゲン検査で息を吸った途端に咳き込み、再度吸うことができなかった。
 病院の体温計で測り、検温表に記載するのだが、自宅にあった体温計とでは一度近く差があった。自宅の体温計の表示が低かったのだ。
 以後、毎日四回、体温・脈・咳・呼吸困難・鼻の異常・頭痛・下痢・倦怠感・味覚や嗅覚障害、血中酸素濃度などの項目、食事の量などをナースコールで報告する。

看護師さんのご苦労

・十五日目(入院二日目)
 看護師さんが完全防護の状態で部屋の消毒、清掃や備品のチェックなどをしてくれた。発熱以来初めてシャワー浴をする。
 看護師さんが部屋を退出し、前室から廊下に出るのに随分長い時間がかかっておられたようなので、時間を計ってみた。
 防護服を着てから前室に入り二十分程、病室で二十分、退室ののち前室で三十五分。しかも前室にはもう一人待機していて入室中の看護師さんと連絡を取りながら職務を遂行されていた。
 私一人のために、二人の看護師さんが一時間半位時間を費やしてくれている。私のような軽症の患者でも、もし3人いれば最低6名の看護師さんが必要ということで、病院はすぐに手が回らなくなるだろう。

 看護師さんは私の食事の空き容器やティッシュ、ペーパータオル等のゴミを出す時は前室待機の看護師さんと連絡を取り合い、ドアの開閉にも神経を使っているのがよく判る。普通の病気と違い、看護師さんも神経を使い、ビクビクしながら対応しているのではないかと思うと居たたまれなくなる。
 そのような中、話しかけてくれる言葉には笑顔が感じられ、優しく接してくれる看護師さん達の働きぶりには只々頭が下がる思いであった。

 入院後、多少咳は出るものの体温は特に上がることはなかったが、岡江久美子さんの死亡や、陰性だったが翌日には死亡した症例をTVの報道で耳にすると、不安以上に恐怖を感じた。

・二十日目(入院七日目)
 PCR検査を行う。
 夕方「残念ですが陽性です。何度もすみません」と医師から謝られてしまう。こちらが恐縮してしまった。

・二十一日目(入院八日目)
 看護師さんが、欲しいものがあれば売店で購入してきますよと言ってくれたが、余計な仕事を増やすだけだと思い、頼まないでいたら売店の棚の写真を撮って持ってきてくれた。その細微にわたる親切さに感服するのみだった。

やっと退院

・二十三日目(入院十日目)
 PCR検査を受け陰性となった。次の日も陰性ならば退院することが出来る。その夜は食事も喉を通らず、なかなか寝付けなかった。

・二十四日目(入院十一日目)
 第二回目の検査を行う。
 随分と看護師さんに面倒をお掛けしたがこれで最後になるようにしたいものだ。検査結果が出るまではまさに「心ここに非ず」の心境。
 結果が通知されたのは夕食後だった。前室で何か音がすると思ったらドアが開き「陰性です。おめでとうございます。退院です。」
 この言葉に目頭が熱くなり、今まで感じたことがないほど胸がつまった。

 その後、家族の迎えで深夜自宅に着いた。
 自分はコロナウイルスから逃れることが出来たが、看護師さんたちは引き続き部屋の消毒・片付けなど、私の想像も付かないくらい手間暇をかけて行うのだろうと思うと、自分はこれでいいのであろうかと自問自答にかられた。
 退院後も自主的に隔離生活を続けた。病院からは四週間は自宅で過ごして欲しいとのことだった。

結びに

 幸い自分は未だに後遺症もない軽症で済んだが、感染が判明した時に自分が感じた不安、さらには恐怖心のレベルは半端なものではなかった。
 入院中のテレビ番組で若い方が「コロナに罹ってもいいと思っている。」このようにインタビューに答えていた。
 「冗談ではない。」
 家族・ご近所・知人・特に医療関係者にどれだけ迷惑、不安、恐怖心を与えたことか。
 その申し訳なさが重くのしかかってくるのである。その気持ちは言葉では表せない。個人的な問題はもちろんだが、自分の感染によって近隣の皆さんや市民の皆さん、一部の人を含むと近隣市町まで不安感を持たせてしまったことに、胸が張り裂ける思いである。

 不安を与えるだけならまだしも、恐怖を与えたら犯罪となる。人を恐喝して相手に恐怖を与えたら逮捕される。

 コロナに罹ることは、犯罪者と同じくらい周りの人に恐怖を与える。

 それくらいの意識を持って一人一人が注意・対応すべきであろうと強く感じている。


新型コロナウイルスに罹患し現在も治療を行っている方々の早期回復を祈念致します。合掌

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